「ポジェ」素朴な野菜

フランス人は、生活の中に、お花を飾ることがとても好きな人種であるとも言われています。また、お花だけではなく、季節のお野菜などもアレンジして、お部屋の中のインテリアとして、飾ったりもするそうです。フランス語で、「ポタジェ」と言いますと、野菜畑を現し、のどかなフランスの農園などの風景を連想させますが、日本では、お花以外でもお野菜や果物などをアレンジメントに主に使うことを、「ポタジェ」などと呼ぶようになったようです。野菜や果物などを使ったフラワーアレンジメントは、フランス人の様々な発想力を用いて、お花野菜果物をメインに、身近なものから得たインスピレーションを表現する、とても素朴なアレンジメントになります。野菜や果物は、本来は食べるものではありますが、皆さんアレンジ次第で、様々な表情を見せる「ポジェ」は、フラワーアーティストたちの作品展などでも、素朴で風変わりなアレンジメントなどとして、多く見かけますが、ポジェのように自由度の高いアレンジこそ、際立った技術やスキルが必要になるなどとも言われています。 皆さんも、お好きな、お野菜、果物を季節ごとにオブジェとして飾ってみると、豊かな時間が生まれるかもしれませんね。

都会の植木鉢たち「お前も都会で頑張れよ」

近所に住むおじいさんは、自宅の玄関前に、沢山の植木鉢を置いていつもお世話をしています。通りがかると必ず声をかけてくださって、「元気かい」「お天気だね」。そんな簡単な一言なんですが、都会暮らしを始めたばかりの私にとっては、会話らしい会話ができる、日常を感じるほんの一瞬です。おじいさんの植木鉢は、花が咲いているものもあれば、枝と葉っぱだけのものもあり、芸術品なのか、ただの雑草なのか、正直その価値は分かりませんが、おじいさんが愛情をもって育てていることだけは伝わってきます。以前、某有名な芸能人の方が、玄関前に草花を育てている方は、良い家族のお宅なはずなんだよ。というようなことをお話しされていたことを、頭の端に記憶していたようで、おじいさんのお宅の前を通る度に、いつもその言葉を思い出します。 街中のお花屋さんなどで、見かけるフラワーアレンジメントなどとは、一風変わったおじいさんの植木鉢の草花ですが、なんだかみんな家族みたいで、おじいさんが玄関先に出ていない時でも、植木鉢たちが皆、私に声をかけていてくれているような気がします。おじいさんの娘さんは、とても有名なフラワーアーティストさんのようで、海外でのイベントや講習会や、展示会などの催しで、日本全国から、さらには世界まで忙しくされている方なのだそうです。おじいさんはいつも自慢げに、娘さんのことを話されていて、俺が娘のお花の先生だからな、と言っていますが、これが世界水準の植木鉢たちなのか・・・、と心の中でつぶやいては、お互いに笑いあっています。街中の風景の中に、植木鉢があるだけで、こんなにも、心が安らぐなんて、実家で田舎暮らしをしていた時は気がつきませんでした。 こんな小さな植木鉢の中でも、彼らは一生懸命に生きてるんだなと、毎日おじいさんの玄関の前を通り過ぎる度に、「お前も都会で頑張れよ」と励まされてるような気持ちになります。

生け花の源流

生け花は、その淵源を飛鳥時代の文化に持っていますが、当時から花を特別視する傾向がありました。花は鑑賞するものであり、季節ごとに異なった楽しみ方があるというのも、日本の四季が育んできた文化だと言えます。日本人の感性は花によって磨かれ、万葉集や古今和歌集の優れた歌も、花の影響を強く受けています。日本における花が特別なのは、美的感性に留まりません。花に神の依り代を感得するのも特徴です。日本のアニミズムは花に限ったものではありませんが、正月の門松や、桜に対する審美眼を例にとっても、如何に花を大切にしてきたのかが分かります。  花と神との結びつきは、様々な慣習となって表れています。例えば、仏前に供花するのもその一つです。仏教が伝来したのは6世紀以降のことですが、それまでの花をめでる文化に影響されて、仏前供花が常習化しました。本来仏教においては蓮の花が主役なのですが、日本では蓮以外にも多くの旬の花が使用され、また供花の形式も独自の発展を遂げてきました。特に鎌倉時代以降は、花瓶、香炉、燭台といった形式が一般的となり、そこでは花が重要な位置を占めるのです。有名な「鳥獣人物戯画」にも、その模様が描かれています。

デザインについて

区別されるデザイン(646)

デザイン全体を冷静に見渡してみると業界毎にもデザインされる事柄によっても確固としたヒエラルキーが存在する。関係する人によってはそれによって一喜一憂するわけだが、その中でもこしらえてゆかなくてはならない現実があるのは事実だと思います。ファッション関連のデザインなどは世界的に有名なデザイナーも日本から出ていますし世界各地でコレクションが開催されセレブリティーそのもののデザイナーやプロデューサーがいるにもかかわらず、なぜかファッションにまつわるデザインはデザイン業界そのものから見るとメインストリームにいるわけではないとなげく高名なデザイナーもおられると聞いています。高度経済成長の最中に解されたという世界的なデザインんいまつわる学会研究の大会にも建築関連やプロダクトデザインなどがあるなかで、ファッションデザインというテーマ自体が存在していなかったという。ほんの数十年前の話であります。世界での認識がそうであるという話ではないらしく、当時の日本での認識の中から出たことごらの一つだとも考えられております。そこで関係者の中からファッション業界の地位や価値の肯定や世界基準との照らし合わせなどありとあらゆる活動を経て出版やメディアのアプローチなどもしながら地位向上をしていた時代もあります。その活動を経てパリのオートクチュールの学校に入り後に世界的なデザイナーになった方や、そのパワーを同時代につむいできた仲間たちと今も刺激しあいながら創作を続けるパワーになっている。そんな話も聞こえてきます。

認知症とフラワーアート2

知人の付き添いで、知人の母親が入居する高齢者施設に、面会に訪れた時の事、女性の入居者さんたちが食堂で生け花をしていました。ボランティアで不定期に施設を訪れる、フラワーアーティストさんの寄付の元、開催されている生け花教室に、急遽参加する事となった私たちは、知人のお母様の隣で、思い思いに生け花を楽しみながら体験させてもらいました。思いもよらぬ楽しい生け花教室への参加もあり、月に一度の施設訪問という僅かな時間でしたが和やかに時を過ごす事ができました。それぞれに作った作品は、個々に皆、持ち帰りが可能だという事でしたが、知人と私は持ち帰らずに、知人のお母様のお部屋に飾っていただくようお願いをしました。認知症を患っているお母様が、少しでも、私たちの存在を思い出して欲しいという知人の切なる願いから、その時生けたお花を、部屋に飾っていただくようお願いをする事にしました。突然の面会にも関わらず、快く生け花教室への参加を許可して下さったボランティアのフラワーアーティストさんと、施設の介護職員さんたちにお礼を言いながら、食堂のテーブルの後片付けを手伝っていると、施設のスタッフさんの1人が、ボランティアに来て下さっている先生は、有名なフラワーアーティストさんなんですよと、こっそり教えて下さいました。知人と私は、二人で、ボランティアをして下さったお礼を兼ねて、フラワーアーティストの先生の元へご挨拶に行くと、実は、以前、先生のお母様もこちらの施設でお世話になっていた事をお話して下さいました。

認知症とフラワーアート1

知人のお母様が入居する高齢者施設に、知人の付き添いで面会に訪れた時の事です。たまたま居合わせた、フラワーアーティストさんが、ボランティアで生け花教室を開催している真っ最中でした。食堂に集まった、女性の入居さんたちは、思い思いに色とりどりのカーネーションをオアシスに生けながら、時に笑ったり、時に談笑しながら作品作りを進めています。施設側のスタッフさんが、偶然にも面会に居合わせた私たちにも、席を2つ用意して下さって、一緒に作品作りを行いましょうと、声を掛けて下さいました。思わぬ展開となりましたが、スタッフさんたちが快く招き入れてくださったので、私と知人二人で、それぞれの生け花作品を知人のお母様の隣で、入居さんたちに囲まれながら一緒に作る事に致しました。生け花などは久しぶりの体験となるので、知人と二人、おっかなびっくり作業を始めましたが気付くと二人とも寡黙にも、それぞれに作品に夢中になるようにお花を生ける作業に集中していました。施設の介護職員のスタッフさんと先生役のフラワーアーティストさんが、私たちのところにやってきて、皆さん、上手ですねぇと褒めると、知人のお母様は、満面の笑みで私たちに笑いかけてきました。スタッフの方が気を利かせて、「Fさん、お嬢様ですよ。Fさんに会いに来て下さいました。良かったですねぇ、お隣で一緒にお花を生けられて。」と、声を掛けると、知人のお母様は、驚いたように知人の顔を覗き込んで、「あら来てたのね。」と、驚いたように笑顔になりました。先ほどは、遠目から目が合ったとたん手招きして呼び寄せたはずなのに、わずかな時間が経過しただけで、私たちの訪問を忘れてしまったのです。知人のお母様は、認知症を発祥してから5年目になります。最近の施設での暮らしぶりは、落ち着きをみせていますが、入居当初は、暴れたり、脱走を試みたりと大変な騒ぎでした。知人も、母親の施設への入居を自ら望んでいた訳ではなく、認知症が進行した母親の行動が、近隣住人への迷惑行為となりはじめた事から、高齢者施設への入居を決意した経緯があったようです。知人は、母親の入居を決意してから、月に1度の面会は、常に欠かさずに行っており、最近の本人の様子も落ち着いた事もあって、知人のお母様と以前よりお付き合いのあった私も面会に誘うようになったのです。

母と生け花教室2

知人の母親が、入居する高齢者施設でボランティアをするフラワーアーティストの先生から、介護施設でボランティアをするまでの経緯をお伺いしていると、何故だか自然と涙がこぼれそうになりました。自身の仕事の忙しさから、認知症を患った亡き母親とは、晩年、会話をする事もままならなかった自分を恥じていると言うのです。高齢化社会にともない、認知症を患う両親を、様々な理由から高齢者施設へ入居させなくてはならない家族が増加しています。忙しい現代人が、認知症の家族と共に暮らす事は、お互いの生活を苦しめる事に成りかねません。認知症を患う家族が介護施設に入居する事は、家族間での生活の安定を保つ事につながり、お互いの存在と自由を認め合うことにもなります。フラワーアーティストの先生は、自分の仕事の忙しさから、自分の母親を施設に入居させ、その後、一度も面会に来られなかった自分を、今でも責め続けているそうです。母親の危篤の知らせを施設の介護職員から受けた時には、ウェディングフラワーの依頼を受けている真っ最中の為、連絡を受けてから数時間後に施設に向かったそうです。仕事が終わり、その足で施設に駆けつけたのですが、お母様は、1時間前に息を引きとった聞かされたと言います。久しぶりに訪れた施設の母親の部屋には、お母様自身が、日々、寂しさを紛らわすように描いていた花々の絵が飾られ、クレヨンや色鉛筆で、彩られた花々のスケッチは、お母様の部屋一面の壁を彩っていたそうです。その時にはじめて、フラワーアーティストを志した自分が、母親の為に、花一輪も持たずに面会に来た事に気付き、悔いたそうなのです。花々で、人を幸せにするフラワーアーティストを目指していたはずなのに、自分の母親の為に、母の日でさえもカーネーションの一株さえも贈ることができなかった自分を振り返りながら、まだ温もりの残る母親の手を握り詫びたというお話を聞かせて下さいました。先生のお母様が亡くなってから1年後の母の日に、先生のボランティア活動は開始されました。忙しい事を理由に、母親の面会に訪れなかった自分の後悔として、高齢者施設への慰問を始めたそうなのです。花との触れあいで、認知症を患う高齢者の方々の笑顔が見たかったそうなのです。失ってからでないと分らない事は、この世には多くありますが、私自身も失った家族に、会いたい気持ちをもって知人と高齢者施設に訪れていたのかもしれないと、フラワーアーティストの先生のお話を聞きながら自分の半生を振り返ってしまいました。

母と生け花教室

知人のお母様が入居している、高齢者施設へ付き添いで面会に訪れた時の事、ボランティアで生け花教室を開催されているフラワーアーティストの先生にお逢いする機会がありました。無償でこのようなお教室を開催して下さったお礼とご挨拶を兼ね、フラワーアーティストの先生に元へお声を掛けにお伺いしたところ、先生のお母様も以前、こちらの施設でお世話になっていらっしゃったそうなのです。その関係から、不定期ではありますが、こちらの施設でボランティアを行うようになって、早5年なのだそうでした。実はお母様を6年前に亡くされているとの事で、お母様がこちらの施設にいらっしゃる時には、ボランティアはされていなかったと言うのです。フラワーアーティストとしての仕事が、多忙となり、認知症を患った母親の面倒を看ることができなくなった為、高齢者施設への入居を決意されたそうなのですが、実際にお母様がご入居されている時は、お仕事が多忙な為、ほぼ面会に来られていなかったそうなのです。フラワーアーティストとしての、仕事の軌道が乗り始めた頃から、お母様の認知症の症状も進行し始めたようで、仕事を優先された先生は、寝る暇を惜しんででも、フラワーアーティストとしての仕事に明け暮れていたようなのでした。そんな多忙な暮らしを送る中、やっと、仕事の波も安定をみせ、お母様の様子を伺いに、施設へ顔を出そうと考えていた矢先に、お母様の訃報が知らされ、施設に駆けつけた時には、時既に遅し、お母様は亡くなられた後だったそうなのです。その時、久々に訪れた施設のお母様のお部屋には、たくさんの絵が飾ってあり、全てお母様が自由時間に描かれたものだと聞かされたそうです。全てお花の絵が描かれてあった作品をみながら、いつも「娘はフラワーアーティストをしていて、とても素敵な作品を作っている。」と、施設の介護職員さんたちに話していたと聞かされたそうです。「生きている時に、母親に恩返しをしたかったのですができなかったものですから・・・・。今からでも尾青くはないと、事情があって家族と暮らす事のできない、高齢者施設に入居されるご高齢者の皆さまに何かしらの形でも貢献できたのなら・・・。」と、お母様が亡くなられた一周忌後から、ボランティア活動を始められたそうなのでした。